かつて日本で活躍した外国籍ガードプレイヤー紹介
昨シーズンからBリーグのオンザコートルールが変更となり、これまで外国籍プレイヤーのほとんどはインサイドで活躍するビッグマンであったが、各チーム外国籍のガードプレイヤーやアジア枠でアジア圏のフォワード、ガード選手を獲得するなど、ロスターに変化が起きている。
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2019/11/19 17:22:08
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#Bリーグ
昨シーズンで代表的なのは、京都のレイヴォンテ・ライス、大阪のDJ・ニュービル、アジア枠では浜松のサーディ・ラベナなど、外国籍のガードプレイヤーがチームの中心として活躍した。
過去に日本で活躍した外国籍のガードプレイヤーを振り返ってみようと思う。
今回紹介するのは、NBAでアレン・アイバーソンとプレイを経験し、ヨーロッパリーグなどでもプレイした「ケニー・サターフィールド」
ケニー・サターフィールド
Kenneth Alexander Satterfield
What to say thank you to the broncos boosters they are the best pic.twitter.com/MM3BVtcF
— kenny satterfield (@Ksatt11) March 31, 2012
■プロフィール
出身 :アメリカ
生年月日 :1981年4月10日(40歳)
身長 :188cm
体重 :79kg
出身校 :シンシナティ大学
ポジション :ポイントガード
NBAドラフト:2001年 全体53位
■経歴
2001-2002:デンバー・ナゲッツ
2002-2003:フィラデルフィア・セブンティシクサーズ
2003-2004:CSPリモージュ(フランス)
2004 :オリンピアGEラリッサ(ギリシャ)
2005-2006:アル・ヘクメ・ベイルート(レバノン)
2006-2007:ブルックリン・コメッツ(ABA)
2007-2008:リヤディ・ベイルート(レバノン)
2008 :カバレロス・デ・クリアカン(メキシコ)
2009 :Asociacion Quimsa(アルゼンチン)
2010 :アルバニー・レジェンズ(IBL)
2010-2011:埼玉ブロンコス
2011 :大阪エヴェッサ
2011-2012:埼玉ブロンコス
2012 :ギガンテスデグアヤナ(ベネズエラ)
■受賞歴
IBLチャンピオン(2010)
月間MVP(2010-2011:1月)
アシスト王(2010-2011)
アシスト王(2011-2012)
■日本での平均スタッツ
2010-2011:埼玉ブロンコス
37試合 36.1分
37試合 36.1分
19.9得点 7.3リバウンド 6.7アシスト 1.9スティール
FG%:40.1% 3P%:27.0% FT%:69.4%
2010-2011:大阪エヴェッサ
8試合 31.0分
8試合 31.0分
9.6得点 6.4リバウンド 5.4アシスト 1.1スティール
FG%:36.6% 3P%:29.5% FT%:63.2%
2011-2012:埼玉ブロンコス
38試合 30.3分
38試合 30.3分
12.7得点 4.4リバウンド 6.7アシスト 1.6スティール
FG%:33.2% 3P%:23.9% FT%:71.6%
カレッジ時代アメリカで注目された司令塔
1981年にニューヨークで生まれ、ケンバ・ウォーカーの出身校でもある地元のライス高校へ進学。
1999年にシンシナティ大学でプレイ。1年生時の1999-2000シーズンは33試合中14試合にスタメン出場し1試合平均28.5分、9.2得点、3.4リバウンド、5.4アシスト、1.2スティールを記録。29勝4敗とチームメイトのケニオン・マーティンと共にチームの主力として活躍。
2年になり35試合中34試合にスタメン出場しチームの中心として、1試合平均34.4分、14.4得点、4.7リバウンド、5.1アシスト、1.7スティールを記録し25勝10敗と好成績を残し、マクドナルドオールアメリカンにも選ばれた。
▼1999-2000シーズンのハイライト
待望のNBAデビュー
2001年NBAドラフトにアーリーエントリーを表明し、全体54位でダラス・マーベリックス指名され、その後トレードにてデンバー・ナゲッツに入団。
当時のナゲッツはリーグでもドアマットチームで低迷期真っただ中であった。唯一の希望であったエースのアントニオ・マクダイスが開幕10試合で怪我をし、シーズン全休を余儀なくされており、27勝55敗とウエスタンカンファレンス12位に沈んだ。ルーキーシーズンとなったケニーは36試合中4試合にスタメン出場し、1試合平均15.6分、5.3得点、1.4リバウンド、3.0アシスト、0.9スティールを記録し、控えポイントガードとしてまずまずの成績を収めた。
翌2002-03シーズンは、22試合中6試合にスタメン出場し1試合平均19.1分、5.6得点、1.6リバウンド、2.4アシスト、0.8スティールを記録していたが、当時のナゲッツはチーム2002年12月18日にチームからバイアウトされ、5日後の12月23日にフィラデルフィア・76ersへ入団。当時の76ersはスーパースターのアレン・アイバーソンを中心としたチームで、司令塔のポジションにはベテランのエリック・スノウがおり、ヘッドコーチは若手をあまり起用しないことで知られるラリー・ブラウンということもあり、17試合の出場に留まり平均4.8分、0.5得点、0.5アシスト、0.9アシストと数字を残すことはできず、その後2003年3月3日に解雇されてしまった。
ナゲッツ在籍時にチームメイトでだった新人のクリス・アンダーセンにニックネーム「バードマン」を名付けたことでも知られている。
NBA復帰を目指すもヨーロッパやアジア圏を転々とする
2003年のオフシーズンにワシントン・ウィザーズの一員としてトレーニングキャンプに参加するも開幕ロスターに残ることはできず、2003-04シーズンはNBAの下部組織Dリーグ(現在のGリーグ)のフェイエットビル・ペイトリオッツで18試合プレイ。チームトップの平均18.6得点、6.9アシストを記録すると、更なる飛躍を求めてフランスリーグのCSPリモージュと契約。5試合に出場に留まったものの18.0得点、5.8アシスト、2.8スティールと才能の片鱗を覗かせた。
その後、2004-05シーズンは、ギリシャリーグのオリンピアGEラリッサ、2005-06シーズンはレバノンのアル・ヘクメ・ベイルート、2006-07シーズンはアメリカに戻り独立リーグのABAでブルックリン・コメッツに所属するなど、毎年チームを転々としていた。
2005年にNBAサマーリーグでシカゴ・ブルズの一員としてプレイし、5試合出場で5.0得点、2.0リバウンド、3.2アシストとアピールはできず、NBAへのチャレンジはそこが最後となってる。ABAでのプレイ後は再びレバノンのリヤディ・ベイルートでプレイ。その後はメキシコ、アルゼンチンのチームと契約した。
転機となったのは2010年、再びアメリカへ戻り独立リーグのIBLに新設されたアルバニーレジェンドと契約。2010年4月30日のタコマタイド戦で13得点、12リバウンド、13アシストのトリプルダブルを達成。2010年5月22日には、31得点、18アシストを記録するなどリーグトップクラスのパフォーマンスを披露。得点とアシストでチームトップ成績を残し、チームを創設1年目でIBLチャンピオンへ導いた。
▼2003年CSPリモージュでのプレイ
日本リーグで史上屈指のポイントガードとしてプレイ
2010-11シーズンにbjリーグの埼玉ブロンコスへ入団。bjリーグ設立から5シーズン戦い勝率5割を越えることのなかったチームは6年目を迎え、外国籍選手を一新し彼を中心としたチームとっなった。元NBAプレイヤーとして圧倒的なスピード、ボールハンドリング、そして類い稀なパスセンスでチームオフェンスを牽引。2011年1月にチームをbjリーグ参入後新記録となる7連勝に導く原動力となり月間MVPを受賞。1試合平均19.9得点、6.7アシスト、7.3リバウンド、1.9スティール、11度のダブルダブルを記録するも、2011年3月の震災の影響で埼玉ブロンコスが活動休止したため、大阪エヴェッサにレンタル移籍することとなった。
当時の大阪は怪我などで司令塔のポジションが固まらずに苦戦していた大阪にとって大きな戦力として迎え入れられ、リーグ3位に貢献。1試合平均6.5アシストを記録し、ウェスタン・カンファレンス2位でプレイオフへ出場。2010-11シーズンで6.5アシストを記録しアシスト王を受賞した。
プレイオフでは、カンファレンスセミファイナルでライジング福岡に2連勝し撃破、カンファレンスファイナルでウェスト1位の琉球ゴールデンキングスと激突し、82対76で敗戦。3位決定戦では新潟アルビレックスBBと対戦し、85対75で勝利しシーズン3位でフィニッシュ。4試合に出場し1試合平均9.3得点、5.8リバウンド、5.8アシスト、1.5スティールを記録しチームに貢献した。
プレイオフでは、カンファレンスセミファイナルでライジング福岡に2連勝し撃破、カンファレンスファイナルでウェスト1位の琉球ゴールデンキングスと激突し、82対76で敗戦。3位決定戦では新潟アルビレックスBBと対戦し、85対75で勝利しシーズン3位でフィニッシュ。4試合に出場し1試合平均9.3得点、5.8リバウンド、5.8アシスト、1.5スティールを記録しチームに貢献した。
翌2011-12シーズンに再び埼玉ブロンコスへ復帰し、今季から加入した元東京アパッチの得点王ジョン・ハンフリーと共にチームを牽引することが予想された。
全試合スタメン出場を果たし個人成績として1試合平均12.7得点、6.7アシスト、4.4リバウンド、1.6スティールを記録し2シーズン連続でアシスト王となった。さらに8度のダブルダブル、3度のトリプルダブルを記録するなど個人としてはリーグトップクラスの成績を残すも、シーズン序盤でのヘッドコーチ交代、他の外国籍選手の相次ぐ怪我などでの離脱でチーム状況は最悪で16勝36敗とイースタン・カンファレンス最下位でシーズンを終了した。
この年を最後に日本でのプレイを終了し、2012-13シーズンはベネズエラリーグのギガンテスデガイアナと契約した。
▼2010.3.9 埼玉ブロンコスvs仙台89ers
現在は2021年に賞金100万ドルの米国トーナメント「TBT」に出場したことが確認でき、40歳を迎えてもプレイしているようだ。
またニューヨーク出身であることから「SeriousSatellite」の異名でストリートボールプレーヤーとしても有名であった。
年齢のこともあり今後プロとしてのプレイはもう見られないであろうが、アメリカのストリートのコートやTBTのようなトーナメントでプレイしている姿は見れそうだ。
▼過去に紹介した外国籍ガードプレイヤー
・外国籍ガードプレイヤー紹介【ディアンテ・ギャレット】
・外国籍ガードプレイヤー紹介【マクムード・アブドゥル=ラウーフ】
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