日本バスケ界で活躍した外国籍ガードプレイヤーを紹介

来シーズンからBリーグのオンザコートルールが変更となることが発表された。
現在のBリーグの外国籍プレイヤーのほとんどはインサイドで活躍するビッグマンである。
このルール変更で、今までインサイドの外国籍プレイヤーが多かったがガードプレイヤーを外国籍もしくはアジア枠で獲得もできるのではと予想される。リーグ側も外国籍のガードプレイヤーが入ることで、日本人のガードプレイヤーに経験を積ませたいとの意図があるようだ。
そこで過去に日本で活躍した外国籍のガードプレイヤーを振り返ってみようと思う。
今回紹介するのは、日本バスケ界で最も実績のあるNBAプレイヤーで京都ハンナリーズに在籍していた「マクムード・アブドゥル=ラウーフ」

マクムード・アブドゥル=ラウーフ
Mahmoud Abdul-Rauf



■プロフィール
出身    :アメリカ
生年月日  :1969年3月9日(50歳)
身長    :183cm
体重    :73kg
出身校   :ルイジアナ州立大学
ポジション :ポイントガード / シューティングガード
NBAドラフト:1990年 3位

■経歴
1990-1996:デンバー・ナゲッツ(アメリカ)
1996-1998:サクラメント・キングス(アメリカ)
1998-1999:フェネルバフチェ・ユルケル(トルコ)
2000-2001:バンクーバー・グリズリーズ(アメリカ)
2003-2004:PBCウラル・グレート(ロシア)
2004-2005:サディマ・ロサート(イタリア)
2006-2007:アリス・テッサロニキ(ギリシャ)
2008-2009:アル・イテハド(サウジアラビア)
2009-2011:京都ハンナリーズ(日本)

■スタッツ
2009-2010:京都ハンナリーズ 38出場 
・1試合平均
31.3分
17.9得点
2.6リバウンド
2.4アシスト
FG%:44.4%
3P%:31.4%
FT%:87.1%

2010-2011:京都ハンナリーズ 42出場
・1試合平均
26.9分
15.1得点
2.4リバウンド
2.7アシスト
FG%:46.6%
3P%:30.3%
FT%:89.0%

神とのマッチアップでNBAを決意した高校時代

小学4年生時にバスケットボールを始め、初めて出て試合では21得点を記録、日本で言う中学1年生の時にダンクを初めて決めるなど優れて身体能力を持っており、常に上級生を相手に試合をしていたという。高校時代に行われたナイキのキャンプでマイケル・ジョーダンと1on1をし2度もスコアできたことから本格的にNBAが目標になった。

世代で最高のガードと評されていた高校時代


大学屈指のガードプレイヤーへ
高校卒業後、ルイジアナ州立大に進学すると、すぐにエースとしてチームを牽引。ルーキーながら平均30.2得点を記録し、新人選手の成績としてはNCAAの歴代最高の成績となった。またその年のAP通信が選ぶオールアメリカン1stチームにも選出された。しかしNCAAトーナメントでは1回戦で敗退。翌シーズンは、怪物と呼ばれたシャキール・オニールが入学し共にプレイ。1試合平均27.8得点、フリースロー成功率は驚異の91%(210本中、外したのは9本のみ)を記録し、2年連続でオールアメリカン1stチームに選出され、全米屈指のガードプレイヤーであることを証明し、卒業を待たずにアーリエントリーを表明した。

ルイジアナ州立大でのハイライト



NBAでのスター街道

1990年NBAドラフトの全体3位指名で、デンバーナゲッツに入団。同じドラフトでは、デリック・コールマン、ゲイリー ペイトンといったスーパースターに次いでの指名となった。ルーキーながらチームの主力として活躍し67試合に出場し平均14.1得点を記録。1991年にイスラム教に改宗し、1993年に「クリス・ジャクソン」から「マクムード・アブドゥル=ラウーフ」と改名した。
1992-93シーズンにはいると81試合全てにスタメン出場し、チームトップの平均19.2得点、2.8リバウンド、4.2アシストを記録。最も成長したプレイヤーに与えられるMIP賞を獲得した。
持ち前のシュート精度で1993-94シーズンと1995-96シーズンにはフリースロー成功率NBAトップとなった。
中でも1993-94シーズンでは、42勝40敗でカンファレンス8位で4シーズンぶりにプレイオフへ進出。63勝19敗でリーグ1位の勝率を収めたシアトル・スーパーソニックスと対戦することとなった。当時のソニックスにはゲイリー・ペイトン、ショーン・ケンプの2大スターを要し、下馬評ではソニックス有利と言われるも2連敗からの3連勝で予想を覆す大勝利を収めた。これは第8シードのチームが第1シードを破るという、NBA史上初となるアップセットとなった。

1996年、高校時代に1on1をしたマイケル・ジョーダンとの打ち合いを演じたゲームハイライト


NBAのトッププレイヤーへ上り詰めるも海外リーグへ

その後も、1試合51得点を記録するなどチームリーディングスコアラーとして活躍していたが、国歌斉唱問題で彼のキャリアが狂い始めた。
NBAでも試合開始する前に必ず国家が斉唱されるが、イスラム教を信仰していたラウーフは、「星条旗は抑圧や専制政治の象徴」という考えから国歌斉唱中に起立しない、もしくは国歌斉唱が終わるまでロッカールームで待機するという行動をとった。この行為がNBAのみならず全米で物議をかもす事態になり、彼は取り扱いの難しい選手と認識されるようになってしまった。
チームにとって重要な得点源として活躍していたが、1995-1996シーズン終了後にサクラメント・キングスへトレードされ、序盤はスターターとして起用されキングスのエースであったミッチ・リッチモンドに次ぐ1試合平均13.7得点を記録するも、翌シーズンは31試合すべてベンチからの出場となり1997-1998シーズン終了後に解雇されてしまった。
オフシーズンにNBAのどのチームとも契約ができず、トルコのフェネルバフチェ・ユルケルと2年契約を結ぶも、チーム内のトラブルで5試合出場しチームを離れ、一度引退を宣言しバスケットボールからも離れることとなる。
しかし、2000年にチャリティーイベントで行われた試合で有望なの大学生達を相手に29得点を記録する活躍を披露。その様子を見ていた親友であり、グリズリーズのエースとして活躍していたシャリーフ・アブドゥル=ラヒームがチームへ報告したことがきっかけで、グリズリーズと契約することとなり2年ぶりにNBAへ復帰することとなった。当時のグリズリーズにはマイク・ビビー、デイモン・ジョーンズの若い司令塔がおり、41試合全てがベンチからの出場となり1試合平均11.9分、6.5得点を記録するも1シーズンで解雇されることとなる。
2003年からはロシア、イタリア、ギリシャ、サウジアラビアなど世界中のプロリーグを渡り歩きバスケキャリアを積んでいた。

日本のプロリーグへの移籍

40歳を迎えた2009年に、当時のbjリーグに新規参入した京都ハンナリーズへ入団。NBAや海外の経験と衰えないシュートセンスを武器に若いチームを牽引し主力として活躍。
チーム成績17勝35敗でウエスタンカンファレンス6位に終わったが、ラウーフ自身は38試合中28試合にスタメン出場し1試合平均17.9得点、2.4アシスト、2.6リバウンド、1.3スティールを記録。2009-10シーズンのベスト5に選出された。
翌シーズンも京都ハンナリーズと契約し、同じチームで2シーズン目の契約を交わしたのはNBA時代のキングス以来のチームとなった。そして補強として昨シーズンMVPのウェンデル・ホワイトが加入し期待がされた。2010-11シーズンが始まると故障者を抱えながらも前半戦を勝率5割を記録。オールスターゲームの3Pコンテストにラウーフは出場するも9得点と予選敗退となった。後半戦に入り5連勝を記録するなど巻き返しを狙うも3月11日のに東日本大震災の影響で中止があり、ウェンデル・ホワイトが退団。28勝20敗でウエスタンカンファレンス5位へ滑り込みチーム史上初のプレイオフ進出を果たした。ラウーフは、42試合中29試合にスターターで出場し、1試合平均15.1得点、2.6アシスト、2.4リバウンド、1.5スティールを記録。フリースロー成功率でリーグ1位の89.0%を記録した。このシーズンを最後に日本を離れた。

未だ現役の鉄人プレイヤー

その後、2017年に設立した3人制プロバスケットボールリーグ「BIG3」に参戦。アレン・アイバーソン、ラシャード・ルイス、マイク・ビビーなど元NBAプレイヤーが多く参加する中、「スリーヘッデッド・モンスター」の共同キャプテンとしてプレイ。48歳を迎えたラウーフは衰え知らずのプレイを披露しチームを決勝へ導く原動力となっていった。その後も3シーズンプレイし50歳でもプレイを続けている。
未だに現役でプレイし続けている大ベテランであるが、今後も「BIG3」でプレイを続けるかはわからないが彼の経験はどのチームでも活きてくるはずである。

数多くの経験を活かしたアシストや50歳でも衰えないシュートセンスが光るシーズン3のハイライトプレイ